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音楽

2008年6月11日 (水)

音楽は神の世界に挑むもの

昔、学校の音楽室に偉い作曲家の肖像画が飾ってありました。

今はどうだか知らないけど、少なくとも私が学生時代はそうでし

た。バッハ、モーツァルト、ベートヴェン、ここらへんは必ずあっ

たと記憶しています。それ以外ならヘンデル、ハイドン、ブラー

ムス、チャイコフスキーあたりか。

まぁ、いずれにしてもクラシックの偉大な作曲家たちの肖像画

というのは音楽室には欠かせないアイテムの一つでした。

ただ、いつの頃かは覚えていないのですが、その肖像画の中

にピタゴラスの肖像画があったことを覚えています。

はい、そうです。あの「三平方の定理」を考え出した人ですね。

私はその時、「あぁ、ピタゴラスも音楽やっていたんだ、世の中

マルチな人っているからなぁ」くらいにしか思いませんでした。確

か「むすんでひらいて」の原曲はジャン・ジャック・ルソー作曲だ

ったと思うし、そんなこともあるんだと思ってました。

しかし、そうではないらしい。

ジャン・ジャック・ルソーのような啓蒙思想家が作曲するのはそ

ういうマルチな面なのかも知れませんが、ピタゴラスが音楽を

やるのはちょっと違うのだ。大昔、音楽は神の世界を解き明か

すための学問だったのです。「クワドリヴィウム」と呼ばれ、音楽

幾何学、天文学、数論は神の世界の調和を解き明かしていくた

めの学問として、その根源は一緒であると捉えられていたので

す。従って、数学者は音楽をやるのが、ある意味当たり前、当

然、幾何学の世界で名を成したピタゴラスが音楽に無関心な

わけがないということになります。彼は別に趣味で音楽をたしな

んでいたのではなく、自らの学問の一環として音楽をやっていた

とうことです。

確かに、IQ300の天才少年現るみたいな話の時、数学の分野

でもの凄い才能を発揮している場合、音楽にもその才能を発揮

することが多いということをTVで見たことがあります。それもそう

いうつながりなんでしょう。

正直、数論と音楽の根源が一緒だと言われてもピンと来ないと

ころがありますけど、音楽は不思議とあの小節で区切ったなか

に収まりよく入る場合に限り美しい調和を見せるというのも一面

事実だなぁ、と音楽をやる者は誰でも思うだろうし、完成された

数式はある意味芸術であるという人がいるのも事実ですし、私

も少なからずそう思いますから、実際、その根っこはつながって

いるのかも知れません。

音楽というと、根っから文系肌の人がやる、芸術家というと数学

のようなきっちりとした学問とは無縁と考えがちですが、きっちり

理論を追いかけるクラシック系の音楽家はそうではないのです。

確かにバッハの平均律などの理論書は数学の教科書みたいで

すからね。

私は根っからの文系です(笑)。

私にはそんな難しい理論を追いかける力量はありません。

私はムジクス(音楽家)ではないのだろうな、カントレ(歌い手)な

んでしょう。いくら曲を書くといっても、所詮気分で書いているもの

だから。

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2008年6月 7日 (土)

時代を経た雲と泥

例えば、60年代のロックなどを聴いていると思うことがあります。

「古臭いなぁ」。これは例えばアイディアの問題とか、歌詞の問題

ではなく、音の問題で。

もちろん、楽器の造りが違うし、技術的な問題もあるでしょうから、

やむを得ないところもあるのですが、それでもそんなものばかり

ではないのだ。今聴いても古さを感じさせないものもある。

まぁ、もちろん、ビートルズは言うに及ばず、やはり、60年代に

それなりの地位を獲得したバンドには、今聴いても感じる何かが

あるのだ。一方で、消えてしまったバンド、例えば、ビートルズが

アメリカ上陸を果たした際、共にブリティッシュ・インベンションと

呼ばれ、アメリカに旋風を巻き起こし、その多くは2年後にはいな

かった、ああいうバンドの場合、不思議と「古臭い」イメージがして

しまうのですよ。

結果論的に言ってるんじゃないかと思われるかも知れませんけ

ど、別にそういうつもりはありません。いや、あれは誰でも思うん

じゃないかっていう位はっきり出てますけどね、その差が。

名前を挙げて申し訳ないですけど、ハーマンズ・ハーミッツとか

デイブ・クラーク・ファイブとかジェリー&ペースメーカーズなんか

は、如何にも古臭いサウンドと感じてしまうし、音もコーラスも細

い感じがするんですよね。

しかし、恐らく当時は同じように聴こえたんでしょう?

デイブ・クラーク・ファイブなんかはビートルズのライバルなんて

言われていたくらいですから、当時は同じようにかっこいい音楽

をやっていたはずなんです。それにちょっと誤解を招くかもしれま

せんけど、それほど楽器だって異なったものを使っているわけで

はないでしょうし、ビートルズの楽曲だけが圧倒的に複雑だった

ということもないと思うのです(もちろん初期の曲ですけど)。

にもかかわらず、ビートルズ、ストーンズ、キンクス、フーなんか

はエヴァーグリーンで、その他のバンドが古臭く聴こえることが

あるというのは何故なんだろう?

いや、楽曲自体、メロディは古くはなっていないんですよ、多分

今のバンドが演奏したらそれなりに聞こえるんでしょうけど。

その時には誰しも区別がつかなかった雲と泥。

40年も経つとそれがはっきりして来る。残酷というか何というか。

よく言われるのは、楽器の音は古くなるけど、人間の声は古くな

らないってこと。ビートルズなどは鉄壁のハーモニーを駆使して

いるため、新しさを保っていられるというものです。しかし、これ

も一部は当てはまるかもしれませんけど、そればっかりとは思え

ないんですよね。やはり、楽曲のアレンジとかに秘密があるのか

な、生き残るバンドは違うのか?

正直、私にはその差が分からないんです。

そういう意味からすると私は淘汰されていく方だろうか?

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2008年6月 6日 (金)

音楽は歴史を超える

はい、過去ブログの再掲載です。

よろしければ。

「歴史は音楽に冷たい」、こんな言葉聞いたことありませんか?

ないですよね、私が作りました、すみません(笑)。
はい、しかし、今日のテーマはこれ。
日本の歴史をざっと見渡しても、中世の、すなわち明治時代になる前の音楽家
というのは殆どその名前が残っていません。いや、正確には残っていたとしても
邦楽を志す人たち以外の者にはその名前が殆ど知られていません。
例えば、絵画の場合、狩野派なんて人たちを聞いたことがありますでしょう?
各々の名前は知らなくても、狩野派という名前は割りと有名。江戸時代になれば
葛飾北斎、安藤広重などもう誰でも知っている名前が出てきますし、教科書にも
ちゃんと載っています。
一方、音楽家の場合、黒川琴古はどうでしょう?
恐らく普通知らない名前ですよね。彼は琴古流尺八の祖です。江戸時代の人で
すが、上記の画家に比べると知名度は低いし、教科書にも載っていませんね。
それ以前だと、誰しも「虚無僧」とか「琵琶法師」の名前は知っていても、彼ら一
人一人の名前は伝わっていません。
実は日本に限ったことではありません。
クラシック音楽の本場ヨーロッパでも同様の傾向があります。
皆さんよくご存知のバッハ。彼は今やクラシック音楽の中でも古典と言われてい
ます。というのも彼が現在のクラシック音楽への礎となる数々の理論を確立した
人物だからです。しかし、そのバッハはいつの人か?1685年生まれです。
ですからクラシック音楽と言っても、たかだか300百年の歴史しかないのです。
しかし、今は西暦2008年。でも、クラシック音楽の歴史は300年なのです。
おかしいですよね。当然バッハの前にも音楽家は多数存在し、音楽は至る所で
愛されていたんです。でも、バッハより前の音楽家の名前となると知らない。もち
ろん、専門に勉強している人は知っているでしょうが、私たちが音楽室で肖像画
を見たのはバッハからでしょう。
それ以前の音楽と言えば、「グレゴリオ聖歌」とか「吟遊詩人」とかかな。こちらも
具体的な固有名詞ではなく音楽自体の名前やそういう人の総称でしか伝わって
いません。日本の「虚無僧」なんかと同様に。
でも、絵画は違います。ルネッサンスはバッハよりも200年も前ですよ。
ダ・ヴィンチ、レンブランド、ラファエロ。みんな有名ですからね。
私はもっと歴史は音楽家の名前を掲載すべきだと常々思ってきましたが、それは
難しいのだと最近感じました。載せようにもあまり伝わってないのだと思いました。
そう、音楽は残っていないのだ。音楽は形がない、だからその「琵琶法師」の演奏
がどれほど凄くても、グレゴリア聖歌がどれほど崇高でも、時代時代に名人と言わ
れた人たちの名前までは伝わらないのだ。名人も死ぬし、名人を生で聴いた人も
死ぬ。後でどんなに凄かったと言われても、後世の人は聴き様がないのだから、
無理もないことなのだと思わざるを得ません。
歴史は音楽に冷たい、これは録音技術が無かった時代だから、そうなったのだと
思います。だから日本の純邦楽について言えば明治以降生まれた人たちが、昭和
の時代になり、名人の域に達した頃からその名前が浸透しています。高橋竹山然
り、宮城道雄然りです。
それに比べると、ヨーロッパは早い。何しろ日本で言うと江戸時代のバッハ以降は
殆ど名前が残っています。それは楽譜があったからでしょうね。録音技術は無かっ
たけど、それを楽譜に残し、学問として後世に伝えたのです。だから後世の音楽家
はバッハがどれほど凄かったかをその楽譜を通して知ることが出来たし、その音楽
を再現することも出来た。そして、そういう体制を整えたのがバッハだった、だから
バッハ以降ということになるのですね。よく「バッハ以前、バッハ以後」と呼ばれる所
以です。
その点絵画はいい。当然修復はしなければならないとはいえ、ルネッサンスの時代
の絵が堂々と残っている。いや、それどころか高松塚古墳の壁画だって残っている
のだから。まぁ、残っているとは言い難い保存状態が口惜しいけど。
時代は変わりました。音楽を残せる時代になりました。
とても幸せなことだ。
でも、本来音楽は手に触れれば消えてしまう淡雪のようなものだったのだ。
その時々で人々を楽しませ、感動させていたのだと思います。その中で名を残すこ
となく死んでいった多くの音楽家がいました。
でも、不思議なことにその音楽だけは残っています。
「虚無僧」が吹いていた尺八、「琵琶法師」が弾いていた琵琶、宮廷で演奏されてい
た雅楽、今でもCDで聴けます。グレゴリオ聖歌も何枚もCDが出ている。
そんな名も無き音楽家の先に自分がいるなどと思い上がったことは考えませんが、
自分が少しでも音楽をやっていることを誇りに思います。
歴史は音楽に冷たい、冷たいが、音楽は歴史を超えるのだ。

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過去の名作とどうしたら戦えるか

以前甲本ヒロト氏がインタビューの中で、「自分たちのCDを自分

が好きなアーティストのCDを並べて棚に置いた時は嬉しかった」

というようなことを言っていました。

実によく分かりますよね。彼らブルーハーツがデビューして、CD

を発売、そのCDを自分ちのCDラックに置いてみる、するとそこ

には自分が今までファンとして聴いていたアーティストのCDと並ん

でるんですから、これは一種「プロになったんだ」という感慨もあっ

ただろうし、単純にただ嬉しいという気持ちもあったでしょう。

かく言う私も恥ずかしながら一度だけそういう経験があります。

私のアルバムではありませんが、私の楽曲を取り上げてくれた方

がおりまして、それがCDになったのです。12曲くらいあるうちの

一曲だけでした、私が書いた曲は。でも、そのCDが棚に並んだ時

は嬉しかった。もちろん、歌っているのは私ではないのですが、そ

れでもそんな思いを抱くのですから、全てが自分たちの作品だった

ら、それはもう天にも昇る気分ではないだろうか。

とは言え、そんな思いばかりではないのだ。

自分ちの棚に並ぶだけなら、「嬉しい」で済むのだが、メジャーの

アーティストともなれば、全国どこのCDショップに行っても、そういう

状況なわけです。それはもちろん嬉しいのだろうけど、逆に重さを

感じるのではないだろうか?

言うなれば、そこにはビートルズもストーンズも、マイルス・デイビス

もチャーリー・パーカーも並んでいるのですから、そんな彼らと同じ

所にたって勝負していかなければいけないんです。

もちろん、この日本で、日本人の新進気鋭のアーティストが多額の

宣伝費をかけて売り出せば、ビートルズのCDよりも売れるでしょう

けど、そういうことじゃないんですよね。要は音楽界の中で、自分が

存在する意義がどれほどあるのか?、そんなことを考えるんじゃな

いかってことです。

今更この音楽が、何か新しいものを提供しているんだろうか?とか

これは以前に誰かがやったことの焼き直しではないのか?とか、そ

いうことを考えてしまうということです。

私はどうしてもそういうことを考えてしまうんですよね、まぁ、だから

こそ、「戦国絵巻ポップス」なんて誰もやっていないことをやりたがる

のですけど。

例えば日本のR&Bのアーティストたちはそれをどう考えているんで

しょうか?彼らの存在意義は一体何なのか?

当然、CDショップには彼らの先生とも言うべきアーティストのCDが

普通に並んでいます。スティーヴィー・ワンダー、ジェイムズ・ブラウ

ン、スモーキー・ロビンソンなどなど。彼らではなく自分の音楽を選ん

でもらう決定的な要素って何だと考えるのか?

今創りたてだということか?歌詞が日本語だということか?少なくと

も私にとってはそれは彼らの音楽を選ぶ決定的な要素にはならない

んですよね。

創りたての音楽もすぐにそうじゃなくなる。そうなった時に、過去の名

作と並べられて、どうしたら戦っていけるのか?これって非常に厳し

い現実だと思います。

とりあえず、私は「戦国絵巻ポップス」としか言えないかな。

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2008年6月 5日 (木)

グレン・グールドは天使か悪魔か?

以前ヨロズーで書いたものの再掲載です。

よろしければ。

グレン・グールド、カナダ人、ピアニストです。

20世紀で最も偉大な、そして個性的なピアニストでしょう。
彼が弾いたバッハの「ゴルドベルグ変奏曲」はそれまでのバッハ演奏の常識
を覆し、音楽界に衝撃を与えました。当時そのアルバムはルイ・アームストロ
ングの新譜を抑えてチャートでも1位を獲得するという離れ業をやってのけま
した。(後にルイが人気絶頂のビートルズを抑えてチャート1位になるという快
挙をやってみせたのも面白い偶然ですけどね)。
彼は間違いなく天才ですが、その強すぎる個性ゆえにある意味異端児として
今なお扱われることも珍しくありません。今日は彼のお話を。
あらかじめ申し上げておきますと、私は彼の演奏が大好きです。
「ゴルドベルグ変奏曲」は掛け値なしにいい。人類の宝だ。それは間違いない。
彼は2度(デビュー作と遺作)それを録音しているが、私は最初の、すなわち、
デビュー盤の方が好きですね。空の果てまで抜けていくようなピアノの音色、
流れるようなタッチ、いいなぁ、おせっかいながら、全ての人に聴いて欲しくなる。
だが、彼は個性的だ。要は彼は楽譜通りには弾かないのだ。自らの独特の解釈
に基づいて衝撃的な演奏を展開するピアニストなのです。それ故に絶対支持派
と絶対拒絶派に分かれます。ただ、どちらの話も極端であまり賛同しかねる部分
も多いんですよね。
まず、絶対支持派の話。
彼は「史上最高のバッハ演奏家」である、というもの。
確かに彼の弾くバッハは素晴らしい。支持派はそれ故に「楽譜通りに弾かない」
ことまでよしとする。中には「楽譜通り弾くのは、20世紀になってから浸透したも
ので、それまではそんなことは無かった」などと言う人までいる始末です。それは
逆です。19世紀以前はクラシックの音楽家とはいえ、自分の作品を弾くのが当た
り前だったのだから、自分の作品を楽譜通りにどうしても弾かなければならない
ことはないのです。過去の作品はあくまで練習曲なんですよ、人前で演奏するの
は自分の曲。少なくとも19世紀まではクラシック音楽も創造音楽でした。しかし
20世紀以降再生音楽に堕したのだ。指揮者の位置付けが大きく変わったのも
そういう意味でしょう。
だから、グールドがやっていることは「不遜」なんですね。どうしても「敬意を払っ
いる」とは言えない。それは単に保守的な考えなのではなく、再生音楽である
20世紀以降のクラシック音楽の不文律なのです。彼はそれを守らなかった。
正直、オリジナルのスコアは楽器の発達などの環境の変化を加味していないの

だから、不充分なところはあるんです、、故にそれを補いたくなるのは分かるの

すが、でも、死んだ作曲家の意志は分かりませんから、それはルール違反としか
言えません。
当然、著作権のようなビジネスの話として、誰でも好きなようにバッハの曲を解釈
して弾いてもいいんです、そして、グールドのように評価されてもいいんですけど、
それは「天才ピアニスト」に留めておくべきであって、「史上最高のバッハ演奏家」
という称号を与えてはいけないのです。
確か、そう言ったのは同じピアニストのリヒテルじゃなかったかな。何故あなたが
決めるのだ?あなたはバッハじゃないだろうに、っていうことです。第一、史上最高
って言ったって、19世紀以前のピアニストがどうバッハを弾いていたかなんて誰
にも分からないじゃないか、録音されていないんだから。全くいい加減な話ですよ。
「バッハが生きていたら、彼は認めただろう」なんてのは軽がるし過ぎますよね。
いや、正直私自身もそういう思いがありますけど、それは口にしてはいけないのだ
と思っています。
グールドの作曲家としての不成功や、バッハが気に食わない演奏家と決闘までし
たという逸話を考えると、「どうしてそんなことが言えるの?」っていう思いで、口か
ら出かかった言葉を打ち消すのですね。
一方で、彼のピアノを絶対的に拒否する人たちもいます。
彼らが口々に言うのは上記のように楽譜を無視することが問題だということですね。
でも、彼が楽譜通り弾かないからといって、彼が天才ピアニストではない、彼の演
奏がつまらないということでは断じてないのです。彼は「史上最高のバッハ演奏家」
ではないだけで、彼のピアノは充分魅力的なのですね。
思うままに弾く彼のピアノを「あれはクラシックではない、ジャズだ」などと言う人が
たまにいますが、それは失礼な話です。グールドにではなく、ジャズに対して。
グールドの「ゴルドベルグ変奏曲」がジャズだったら、三流ジャズですよ、スウィング
してないし。ジャズピアノとしてならセロニアス・モンクの方が遥かに上でしょう。
グレン・グールドは天才ピアニスト、異端児。それ以上でもないし、それ以下でもな
い、それでいいじゃないか、ダメ?
彼は演奏会をせず、録音や放送に活動を求めました。そこらへんも異端ですよね。
って言うか、彼は意識せずともショパンになりたかった人だと思っています。
ショパンはやはり演奏会を嫌い、ピアニストとして生きるより作曲家として楽譜を
残すことに力点を置きました。もし、20世紀の人だったら、自分の曲をレコードとし
て残すことに心血を注いだことでしょう。
グールドは20世紀のショパンになりたかったのだと思う。
でも、残念ながら、彼にはショパンほどの作曲家としての力量が無かった。結果とし
てまともな完成作品を創れなかった。いくら、彼が「作曲家のように弾く」と言われて
も、いくらその著作で持論を展開しようとも、曲が書けなかったのは事実であり、そ
れは彼にとって痛恨だったのではないだろうか。「作曲家のように弾く」のではなく
「作曲家として弾く」、彼が本当に求めたものはこれじゃなかったか。
彼が極端なショパン嫌いだと言うのも皮肉な話だと思う。
いや、もちろん、嫌っている理由は、極度に感傷的な質の低い悲しみがあるベタつ
いた音楽だから、といものだと思うし、そういう気持ちはよく分かるのだが、それでも
どこか心の奥底で意識しているところがあったんじゃないのだろうか。
そういう意味からすると、彼は天才演奏家として、録音技術が発達した20世紀に生
まれて幸運だったと思うけれど、もしかしてバッハと同じ時代に生まれたら、それこそ
バッハ本人から「史上最高のバッハ演奏家」の称号を貰っていたかも知れない、音
楽史の中でひっそりと。

どちらがよかったか?それはもちろん、今の時代。でなきゃ、私は聴けなかった。

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2008年5月26日 (月)

音楽を旅する~アイヌ編

「音楽を旅する」の何回目だったかな?6回目かな。

今回はアイヌ音楽です。

「音楽を旅する」なんてことを考えると、割とすぐに考えるのが

「じゃぁ、日本の音楽を」ということです。そう、世界の音楽を追い

求めるのなら、自分たちの国、日本の音楽だって旅しようじゃな

いか、ということですね。はい、これは至極当然の成り行きです。

しかし、私はこうした民族音楽からの流れで日本の古典、純邦楽

に出会ったわけではありませんでした。それは別ルートですね。

歌舞伎への興味から徐々にという感じだったかな。ですから、こ

うした民族音楽的なアプローチから出会う音楽はおおまかに二つ

です。琉球音楽とアイヌ音楽。

この内琉球音楽についてはもはやその影響がJ-POPにまで浸

透しているほどですから、今更改まって聴かなくてもどうにでもなり

ます。チャンプルーズとかから遡って民謡、しまうたなどに行き着く

のは容易です。だから自然とそういうCDは家にあったな、いや、

もちろん、いつか買ったんでしょうけど。

その時私が興味を持ったのはアイヌ民族の音楽でした。

丁度その頃北海道を旅行したんですよね。で、各地に点在するア

イヌコタンなんかを見ました。そうしたこともあってちょっと興味を持

ったのです。

やはり、アイヌ民族は侵略された民族です、侵略したのは他ならぬ

この日本。今では彼らアイヌの血を受け継ぐものも日本人なわけで

すけど、当然彼らの中には彼ら独自の伝統的文化があったのです。

しかし、時の流れの中で、言葉を話せる人間は減り、それらを守る

運動をしている人たちは大変な苦労をしていると聞いています。

まぁ、いずれにせよ、アイヌ民族には彼ら独自の音楽もあったわけ

です。そして、その音楽は正に純邦楽という位置付けではなく、民族

音楽というジャンルとして聴くことが出来るのです。というのも私が

持っているCD「アイヌのうた」はビクターのワールドミュージックの

シリーズの一つでしたから。

そして、私は聴きました、アイヌ音楽。

正直私は少なからず落胆しました。そこで聴いたのは子守唄、祝詞

早口言葉などを含む、極めて土着的なもので、当時の私は「とても

音楽と呼べるシロモノではない」、こう断じました。恐らくそれは、一

方にある琉球音楽があれほどの独自性と美しさを持ったものである

のだからという勝手な思い込みでアイヌ音楽を自分の中で定義して

しまっていたからなのだと思います。って今はそう思うんですけど、

当時は分からなかった。

で、次に「もう少し音楽的なもの」と考えて、アイヌ出身の音楽家OKI

のアルバムを聴きました。彼の評判はこうです、「アイヌ音楽とロッ

ク、それにレゲエやブラック・ミュージックまで取り入れた音楽」。

確かにそうだったかも知れない。でも、それでも私にはこう思えた。

「レゲエ、ソウルの要素は理解出来るが、アイヌのエッセンスはどこ

にあるのだろう?」。現代音楽との融合を図ったアイヌ音楽も私に

はその良さが分からなかったのだ。

アイヌ音楽についてはこれ以上聴かなくてもいいかと正直思いまし

た。しかし、そのOKIのアルバムの中で、彼がプロデュースしたアル

バムのことを読んだのです。それが安東ウメ子の「イフンケ」でした。

私はよくその人のことを知りませんでしたが、彼女はアイヌの歌の世

界では第一人者だと言うじゃありませんか。ならば聴いてみよう、そ

れで最後にしよう、そう思いました。

この「イフンケ」というアルバム、これは出来れば全ての人に聴いて

欲しいね。少なくとも音楽やる人には聴いて欲しい。

凄いよ~、これは。

相変わらず琉球音楽のような派手な美しさは欠片もありません。

ありませんが、何と言うのでしょう、素朴?生活感?

歌というより唄。田舎のおばぁちゃんが唄ってくれる子守唄のイメージ

だろうか。実際内容的には前述の「アイヌのうた」と同じなのでしょう

が、やはりより音楽的だし、OKIのプロデュースがいいんでしょうね、

それと安東ウメ子の唄が抜群にいいのだ。

もし琉球音楽が「青い海」なら、アイヌ音楽は「広い大地」。

「美しい女」なら「強い母」といったところかな。

初めて聴くのに懐かしい、こんなどこかで聞いたことのあるコピーが

ピッタリ来るような音楽でした。

この後も何枚かアイヌ音楽を聴きましたが、これ以上のものは無かっ

たですね。

もし、アイヌ音楽を聴くなら、「イフンケ」を、何はなくとも。

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2008年5月25日 (日)

今更一人で幸せになるなんて

山口百恵という歌手がおりました、昔。

今は引退して三浦友和氏の奥さんですね。私は当時も特にファン

でもなかったけど、そりゃぁ、引退の時には大騒ぎだった。彼女は

数あるアイドル歌手の中でトップを走っていたし、アイドルから大人

の歌手へ上手に変貌を遂げた最高の例でもあったから、老若男女

を問わずファン層が広かったのでしょう。

しかし、その多くは引退を歓迎するものだったと記憶している。

一人の愛する男性と結ばれるために潔く芸能界から去るという彼

女の選択が世間には好意的に受け入れられたし、素敵なことだと

言われていた。

でも、私には不思議でならなかった。許せなかったと言ってもいい。

前述のように、私は別に彼女に深い思い入れがあるわけでもない。

それでも、私の目にはこう映った、

「彼女にとって歌とは、音楽とはそんなものだった」と。

彼女の歌を追い続けてきたファンなどはいい面の皮である、と。

もちろん、歌手が個人的な幸せを求めることは当然だ。もし、そ

のために歌を捨てなければならないのなら、歌を捨ててもいいの

だと考えるのは人間として普通なのだが、それは手酷い裏切りで

しかない。彼女は幸せの前にいるかも知れないが、それは音楽が

もたらしたものだし、その音楽を支えてきたのはファンである。私

には彼女がそのファンを置き去りにして、自分一人が幸せになる

道を選んだように思えて仕方なかった。

今でもそう思っている。

例えば、美空ひばりはどうだろう?

もちろん、彼女だって個人的な幸せは追求しましたよ。

でも、恐らく彼女の中ではいつも歌が一番だった。まぁ、こちらが

飽き飽きするほど彼女の最期については番組が作られるけど、

そういうものを見る限りでは、彼女は命懸けで歌を歌っていたで

しょう。自分のため、そしてファンのため。彼女のファンは幸せだ。

美空ひばりは命を懸けてまで、東京ドームコンサートを行ったん

だし。

人間だから、どういう道を選ぶ権利もあるし、誰だって幸せになり

たい。引退して幸せになる道を選ぶ人がいてもいいのだ。

でも、それを許すというファン心理は今だに理解出来ないなぁ。

ファンは「悲しいけど、彼女が幸せになるならいい」と考えるのだ

ろうか?それがファンか?ファンの側にもそれほど深い思い入れ

は無かったのかも知れない。そういうあっさりした関係なのかな。

「あなたは今更一人だけ幸せになるなんて出来ない人間なんだ」

こう言ってはいけないだろうか?

音楽家ってそういう重荷を背負わないでもいいのだろうか?

私は背負うべきだと思っている。

それが重いのなら、その重さについても歌にして欲しい。

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